Osaka University of Tourism’s
Web magazine”passport”
「passport(パスポート)」は、観光や外国語、国際ニュースなどをテーマに、
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インドネシア法制史研究にかかる前田精海軍少将の個人史研究のための鹿児島出張
毎年8月15日頃になると日本は葬式のような暗い様相となる。他方で毎年8月17日頃になるとインドネシアは紅白の国旗を掲げたお祭り騒ぎの明るい様相となる。8月17日はインドネシアの独立記念日である。
1945年(皇紀2605年)8月17日にインドネシアでスカルノ(後の初代大統領)が平穏無事に独立宣言を行った。
わたくしはインドネシア独立宣言前後の24時間に焦点をあてた公開講座を行ったことがある[大阪府新別館南館公開講座フェスタ2017(2017年11月6日)]。その後もインドネシアの法制史の一局面としての日本統治時代?独立宣言前後にも注目してインドネシア法研究を進めている。
インドネシアの独立に少なからぬ貢献をした日本人として前田精、吉住留五郎、市来龍雄、三好俊吉郎、西島重忠、柳川宗成や日本敗戦後に再植民地化を目指したオランダ等と戦った残留日本兵数千人が知られているものの、インドネシアで毎年のように言及される「マエダタダシ」の個人史の研究が少ないと感じられる。
そこで前田精の個人史研究に貢献するため、令和6年9月2日から3日にかけて前田精の出身地である鹿児島県加治木町(姶良市)へ現地調査に赴くことにした。普段から学生に対して「自分の手足を使って一次データを集めなさい」と指導している大学教員として率先垂範する趣旨もあった。
とはいえ、ほぼなんの伝手もない。唯一の伝手といえば鹿児島県霧島市にお墓を有しておられる、わたくしの妻を通じた知り合いのみである。その方にお話したところある程度の案内をしてくださるということでお願いすることにした。鹿児島中央駅で合流してよく話を聞くと知り合いの方の法要は加治木町の性應寺で行われ、墓地も加治木町と隣接しているという。そこで性應寺で過去帳を調べてもらったものの前田精は該当せず万事休すかと思われた。この時点で前田精のことを知っていた加治木町の人はいなかった。
しかし、性應寺で働いておられる、400年の歴史をもつ次郎太窯の陶芸家のご家族というスタッフの方が強い関心を示してくれて、方々に電話をかけまくってくださった結果、確かに加治木町小山田に「前田」という家が数軒あるはずだということが判明し、地図上でおおよその地点も示された。
早速現地に赴いた。
話に聞いた通りの車一台しか通れないトンネルを通過した。このトンネルの壁面は「土」である。
トンネルを抜けてしばらくいくと廃屋があった。これが前田精の生家かと思いながら先に進んだ。
結局無人の建物を3軒ほど見たあとに、やっと人が住んでいると思われる家にたどり着いた。
表札を見ると、「前田」と書かれている。早速声がけしたがご不在のようだった。令和6年9月2日はここまでで撤収することとした。
明けて令和6年9月3日、再び「前田」と書かれている表札のお家を訪ねたがやはり不在で人に会うことはできなかった。しかし、前日置いていった名刺がなくなっていたり、確かに昨晩そこに人が帰っていた痕跡が認められた。
ともあれ、この付近で前田精が生まれ育った可能性を信じて、山並みの向こうに桜島を望む風景などを撮影した。更に加治木高等学校(旧制加治木中学校)、加治木図書館、加治木郷土館、島津家館跡(現在は神社)などを訪問し観察したり資料を収集したりした。
今回の出張で、インドネシア独立宣言起草の決定的瞬間に関わった前田精の生まれ育った環境を多少なりとも知ることができたと思う。しかし、肝心の前田精につながる人からの聞き取りは今後の課題となった。